横溝正史が生んだ名探偵・金田一耕助。『犬神家の一族』の間取りと建築を徹底考察。金田一さん、これが事件の舞台ですよ。

金田一耕助勉強家の木魚庵(もくぎょあん)先生の連載『金田一耕助の間取り』を【建築知識】にて好評連載です。当連載では金田一耕助の事件簿に登場するミステリな建築物の間取りを徹底考察します。間取りがわかればミステリはもっと面白い!
金田一耕助シリーズの代表作品『犬神家の一族』をテーマにした回を全文公開します。
美しいイラストは一級建築士・本間至さんの描きおろし。連載では掲載していないイラストもカラーで公開します。ぜひ最後までお楽しみください!
文・木魚庵 イラスト・本間至

『犬神家の一族』のあらすじ

 犬神財閥の創始者・犬神佐兵衛(いぬがみさへえ)が永眠した。遺言状には、佐兵衛の恩人・野々宮大弐(ののみやだいに)の孫娘・珠世(たまよ)が、佐兵衛の3人の孫(佐清(すけきよ)、佐武(すけたけ)、佐智(すけとも)のうちから婿に選んだ者に遺産を与えると書かれていた。莫大な遺産を巡り犬神家の人々は争い、やがて凄惨な連続殺人事件が引き起こされる。

『犬神家の一族』より犬神家の外観

「美しいクリーム色の洋館と、複雑な勾配をもった、大きな日本建築の屋根が見える。犬神家の裏庭は、直接湖水に面しており、大きな水門をもって、湖水の水ともつながっているらしい」。ステンドグラスをしつらえた塔を中心に右側が洋館、左側が日本建築。 イラスト・本間至

犬神家の間取り

 「信州財界の一巨頭、犬神財閥の創始者、日本の生糸王といわれる犬神佐兵衛(いぬがみさへえ)翁が、八十一歳の高齢をもって、信州那須湖畔(なすこはん)にある本宅で永眠したのは、昭和二十×年二月のことであった」

 横溝正史が1950(昭和25)年に連載を開始した『犬神家の一族』は、ひとりの老人の死から幕を開ける。生糸産業で財を成し、信州財界の巨頭とまで呼ばれた犬神佐兵衛は、死に臨んで非常に変わった遺言状を遺していた。佐兵衛の莫大な遺産をめぐって一族の間で奇怪な連続殺人事件が巻き起こる。犬神家の一族とは、犬神佐兵衛の遺言状に囚われ、呪縛から逃れられない遺された親族のことに他ならない。

 物語に登場する犬神邸も、一族の意見は何一つ取り入れられず、佐兵衛の意のままに建てられた。広大な犬神邸は、佐兵衛が君臨する王国を体現したものだった。

 犬神邸の歴史は、そのまま犬神佐兵衛の生涯をなぞっているといっても過言ではない。そこで今回『犬神家の一族』をとりあげるにあたり、作中の登場順にこだわらずに犬神佐兵衛の生涯を振り返りながら、彼が移り住んだ家々を順に紹介する。
 本作の舞台は信州那須湖畔である。那須という地名は栃木県に実在するが、本作の那須は横溝正史が結核の療養のため約5年にわたって過ごした諏訪(すわ)をモデルにしている。つまり那須湖は諏訪湖、上那須、下那須という地名はそれぞれ上諏訪、下諏訪を言い換えたものとなっている。

那須湖周辺の俯瞰図。 イラスト・本間至

 佐兵衛が初めて那須に現れたのは、彼が17歳の時、作中には明記されていないが登場人物の年齢を整理すると1885(明治18)年のことだった。この時佐兵衛は国から国へと渡り歩く浮浪児で、那須神社の拝殿の床下で飢えてのたれ死ぬ寸前だったという。そこを那須神社の神官だった野々宮大弐(ののみやだいに)に救われ、そのまま野々宮家に住み着くこととなった。大弐のもとで下働きのようなことをしながら教育を受け、1年あまり後の1887(明治20)年頃に野々宮家を辞し、小さな製糸工場で働くこととなる。その背景には、大弐が佐兵衛の美貌を愛(め)で、衆道の関係を持ったことから大弐の妻・晴世(はるよ)が実家へ戻ってしまったという騒動があった。つまり佐兵衛は、自活するために野々宮家を出たのではなく、野々宮家を出ることになったので職に就いたというのが本来の事情である。

 「俊敏な佐兵衛は、ひとが数年かかって習うところを、一年にして習得した」

 とあるように、佐兵衛は身を粉にして働いた。おそらく住み込みに近い生活で仕事を覚えたのだろう。やがて独立して自分の製糸工場を持つことになる。と同時に、このときはじめて佐兵衛は自分の家を持った。それが、本作で事件の舞台ともなった豊畑村(とよはたむら)の空き屋敷である。

豊畑村の空き屋敷 イラスト・本間至

「この豊畑村こそは犬神家の発祥の地であり、そして葦間に見えるこの建物こそは、佐兵衛翁がはじめて構えた本邸なのである」

 豊畑村というのは、現在の犬神邸がある上那須の街から、那須湖の対岸1里ばかりの距離にある村である。佐兵衛は豊畑村の、湖水に面した土地にそうとう立派な邸宅を建てた。
 引用文に「はじめて構えた」とあるとおり、独身だった佐兵衛は、それまで家を持つ必要がなかった。それなのに豊畑村に邸宅をかまえることになったのは、もちろん自分のためばかりではない。独立して製糸業を起こした佐兵衛が、東京や大阪など遠方から見える得意先を饗応(きょうおう)し、また宿泊させるための家が必要となったからである。
 そしてそれは、日清戦争で製糸業が飛躍的に発展を遂げた1894(明治27)年頃のことであったと思われる。
 というのも、屋敷をかまえたことで生活が安定した佐兵衛は、そこに愛人を3人同時に住まわせるようになった。その愛人たちが娘を生み、松子、竹子、梅子と名づけられた。いちばん早く生まれたことから長女の扱いを受けている松子が、事件の起きた1949(昭和24)年当時に5253歳だったという描写から逆算すると、生まれたのは1897(明治30)年前後と思われるからである。

 「その後、豊畑村ではなにかと不便なので、事業の中心地が上那須に移されるとともに、本宅もそちらのほうへ新しく建築された」と本文の記述にあるが、その時期を本文から推しはかることは難しい。豊畑村の旧犬神邸について「ずっとむかし犬神家が住んでいた家」とあり、佐兵衛のみならず犬神家が一族を成してからもまだしばらくは豊畑村に住んでいたようだ。そして次のセリフから、上那須の犬神邸に移る際にも、3人の愛人たちを連れていることがわかる。

「皆さんはこの家のあちこちに、離れのついているのを不審におぼしめすでしょうが、(略)亡父はあの離れにひとりずつ、三人の女を飼っていたのでございます」

 この愛人たちは、後に佐兵衛が青沼菊乃(あおぬまきくの)という女性との間に子を成したときには、みなすでに亡くなっていたという。その一件は1921(大正10)年のことであり、総合すると豊畑村の邸宅にはおよそ10数年しか住んでいなかったようだ。

  それでは、事件当時の上那須の犬神邸についてくわしく見ていくことにする。

 「この犬神家の本邸というのは、佐兵衛翁の事業の基礎がかたまったとき、はじめてここに建てられたものだが、当時はたいして大きなものではなかった。それがその後、犬神家の事業が大きくなり、産をなしていくにしたがって、しだいに周囲の土地を買いつぶし、つぎからつぎへと建てましていったのである。だから、建物全体は、迷路のように複雑な構造をもっており、また幾棟にもわかれていた」
 とあるように、那須の犬神邸は実に複雑な間取りをしていることがわかる。
 湖水に面して建てられているため、上那須の街から犬神邸の建物はよく見えるようで、金田一耕助が逗留している那須ホテルからはクリーム色の洋館と複雑な勾配を持った日本建築の屋根が見え、さらに洋館の窓にしつらえられたステンドグラスが陽の光を反射して輝いている。日本国内でステンドグラスが作られるようになったのは明治後期だが、一般の住宅に普及するようになったのは大正以降、洋風建築が建てられるようになってからのことという。特に第一次大戦後の戦後景気から昭和初期に隆盛を見たといい、佐兵衛も洋館建築時に流行を取り入れたと思われる。

 犬神邸がどのような順番で増築されていったか、作中には書かれていない。だが、佐兵衛は3人の愛人とその娘たちの住まいとなる離れをまず建てたであろうことから、離れのある日本建築こそ、最初に建てられたと推定できる。それは愛人と娘たちの居住空間を優先したという意味ではない。母屋ではなく離れという隔絶した場所を生活空間として与え、それ以外の場所をわがもの顔でうろつかせないためと察せらる。

 離れといっても構えはかなり立派なもので、松子が使用している離れの間取りを見ると5間もあってそのいちばん大きな部屋は10畳間となっている。母屋とは廊下でつながっており、それとは別に玄関までついているという豪華さ。さらに「子薯(こいも)に子薯がつくように、この離れにはまた四畳半と三畳の、茶室風の離れがついており、そこが佐清(すけきよ)の居間になっていた」とあるのでそれだけでも現代の住宅より広々としていることがわかる。この4畳半の居間には、茶室らしく丸窓がついており、那須湖を見渡すことができる。
 こうした場合、愛人や子どもたちの待遇に差が出ると争いの種となるため、竹子、梅子が使用している離れもほぼ同じ構造であるのは間違いない。
 佐兵衛の恩人、野々宮大弐の孫娘である珠世(たまよ)もまた、犬神邸内に同じような離れをあてがわれていた。しかしこちらは洋風になっており、後に洋館を建て増した時期に一緒に増築したと思われる。

 庭で特筆すべきことといえば、西洋風の外庭から日本風の内庭、そして気の利いた枝折り戸の先に広大な菊畑が広がっていることだろう。
その中心には茶室風の凝った建物があり、その茶室をとりまくように市松格子の覆いをした菊畑が並んでいる。そこに舞台をつくり一族の顔を模した菊人形が並んでいた。

市松格子の覆いをした菊畑 イラスト・本間至

 また裏庭のほうは湖水に面しており、大きな水門とボートハウスで湖とつながっている。ボートハウスはコンクリート製の箱のような建物で、屋上が屋根つきの展望台になっている。

ボートハウス周辺の地図 イラスト・本間至

 

 裏庭にも大量の菊の鉢が置かれてあり、また日本建築の内玄関にも通じている。
 はじめ金田一耕助は、那須湖をボートで渡って犬神家を訪れたので、ボートハウスから裏庭を通って内玄関で屋敷にあがり、長い長い廊下を通って122間をぶち抜いた大広間に通された。そこが犬神家の中でもいちばん大きな座敷と思われる。
 犬神家の一族を集めて佐兵衛の遺言状公開や、仮面をかぶって復員した松子の息子・佐清の手形合わせ、また金田一耕助による謎解きが行われたのもこの12 畳間である。

名シーン「佐清、頭巾をとっておやり」の場所 イラスト・本間至

 杉本一文(すぎもといちぶん)の描く角川文庫の表紙には、立派なハーフティンバー様式の洋館が描かれているが、これは東京白金にあった藤山雷太(ふじやまらいた)旧邸(現存せず)をモデルにしている。
 上諏訪に現存している諏訪大手見番(けんばん・芸者の取次や会計、また踊りの練習などを行う事務所のこと)がハーフティンバー様式だったので、本項の犬神邸のイラストでもそのままお願いした。

 

『金田一耕助の間取り』は建築知識で連載中!

金田一耕助の事件簿に登場するミステリな建築物の間取りを徹底考察する当連載。次回は10月号(2024年9月20発売)に『迷路荘の惨劇』を掲載します。迷路のように入り組んだホテルの中で起こる惨劇の数々…不可思議な間取りをひもときます。ぜひお楽しみに!

金田一さん、この後は『八つ墓村』の間取りです。

シャーロック・ホームズ研究家の北原尚彦氏と一級建築士の村山隆司氏が17の事件を題材に、物語の中に登場する建物を徹底考察。
コナン・ドイルの書いた文章を分析し、解読し、間取りの細部に至るまで緻密に建築を設計した。
この本を読めば、ホームズの生きたヴィクトリア朝の英国建築が分かる。
建築が分かればシャーロック・ホームズ・シリーズはもっと面白い。
さぁ、この本を読んで謎解きの旅に出かけよう。

シャーロック・ホームズの建築

定価 2,000円+税
著者名 北原 尚彦(文)  村山 隆司(絵・図)
ページ数 221
判型 A5判
発行年月日 2022/02/21
ISBN 9784767829777

著者プロフィール

文・木魚庵(もくぎょあん) 

金田一耕助勉強家を自称。著書に『金田一耕助語辞典 名探偵にまつわる言葉をイラストと豆知識で頭をかきかき読み解く』(誠文堂新光社)。ほか『金田一耕助 The Complete』(メディアファクトリー)、『横溝正史研究』(戎光祥出版)、『別冊太陽 横溝正史』(平凡社)などに金田一耕助関連の記事を執筆。

 絵・本間 至(ほんま・いたる) 

1956 年東京生まれ。一級建築士。1979 年日本大学理工学部建築学科卒業。1986 年まで林寛治設計事務所で実務を通し住宅設計を学ぶ。独立後、本間至/ブライシュティフト(一級建築士事務所)を設立し、150 軒以上の住宅の設計を手がけ、暮らしやすい間取りをつくる住宅設計者として高い評価を得ている。主な著書に、『最高に楽しい[間取り]の図鑑』『本間至のデザインノート』『小さな家の間取り解剖図鑑』(すべて小社刊)などがある。