復刻版『建築知識』創刊号【発売記念】 林昌二・林雅子「私たちの家」を住み継いだ 安田幸一さん 特別インタビュー

1959年に発売した『建築知識』創刊号。その巻頭で、林雅子氏が設計した「傾斜地を生かした家」を林昌二氏が解説しています。この創刊号の復刻版の発売を記念して、林昌二氏・林雅子氏と生前より親交があり、2013年から両氏の自邸「私たちの家」を引き継ぎ、改修後は「小石川の住宅」と名を改めて暮らす建築家の安田幸一さんにインタビュー。引き継ぐことになった経緯とともに、あまり語られることのないお二人のエピソードについて語ってもらいました。

なぜ「私たちの家」を引き継ぐことになったのか

建築家の林昌二、雅子氏の自邸である「私たちの家」は、東京・小石川の高台に建っている。1955年に竣工し、夫妻が亡き後は2年半ほど空き家となっていた。近くに住む親戚は「建物を壊さないこと」と「生前の二人を知る人」を条件に引き継いでくれる人を探していたが、なかなか見つからず、縁あって建築家の安田幸一さんが「“管理人”としてなら」と引き継ぐことになった。安田さんは東京工業大学と日建設計で昌二氏の後輩。新入社員時や昌二氏の本(『林昌二の仕事』新建築社)をつくる手伝いの際など、ここには何度も訪れたことはあったが、まさか引き継ぐことになろうとは露とも思わなかったという。

写真:小川重雄

「私たちの家」の図面を描いたのは、住宅作家として有名な雅子氏ではなく、昌二氏。彼は日建設計を牽引した建築家であり、銀座の三愛ドリームセンターや五反田駅近くのポーラ五反田ビルなど大型施設の作品で知られているが、安田さんは「昌二さんは東京工業大学で清家清先生の薫陶を受け、実は住宅の設計をやりたかったのだと思います」と語る。

「昌二さんとはポーラ美術館で一緒に仕事をさせてもらいました。林さんはいつも大きなところと、細やかなディテールの両極端に興味を抱かれていました。この自邸はその最たるもの。古い住宅に新しい住宅を覆い被せるという大胆な構成と構造、そして建具などの細かな納まりまで非常によく考えられています」と安田さん。昌二氏の手描きのスケッチや図面がファイルにして7冊ほど残されていたという。

建築家の自邸を改修して住まう

「私たちの家」は1955年の竣工時はフラットルーフの平屋建てだったが、10年後の1965年に北側に水廻りを、1978年には2階を増やすなど大規模な増築が行われた。南側の庭に対して大開口が設けられ、居間のソファに座ると住まい全体を見渡すことができる。

建築家が他の建築家の自邸を改修するのは非常に稀である。しかし安田さんにとっては、新築も改修もそれほど差はないのだという。「新築でも何も条件がないということはありえない。改修はすでに建物があるというだけで、諸条件の一つだと思っています。厳しい条件かもしれませんが、そのなかで何ができるかを考え、条件が厳しいほどにアイデアは際立ち、建築が強くなると考えています」(安田さん)

昌二氏は生前、「骨格」と「設備」について語っていたという。「昌二さんは、普遍的な骨格(構造)と対照的に、仕上げや設備は更新されていくべきだと考えていました。そこで、仕上げや設備は私たちのライフスタイルに合わせて変えることにしました」(安田さん)

林夫妻は夜に過ごすことを想定して焦茶色の落ち着いた内装で仕上げていたが、安田さんは家族と暮らすために明るい色合いの素材に変更し、設備は最新のものに更新した。チークの床材など再利用できるものは活用し、雅子氏の代名詞でもある「雅子レッド」と呼ばれる赤い壁は当時と同じベニヤ製造会社に依頼して、一部を新規製作。また、庭は鬱蒼としていたため、高木を生かしつつも低木はやり変え、庭のウッドデッキは腐っていたため新たに製作した。

『建築知識』創刊号に掲載された「傾斜地を生かした家」

『建築知識』の創刊は、「私たちの家」と同時代の1959年。創刊号には、雅子氏が設計した「傾斜地を生かした家」が掲載され、昌二氏がその解説を書いている。

「当時は、郊外住宅地開発により雛壇状に宅地造成が行われていました。そんな時代に、斜面をそのまま生かして建てたらどうなるかということを実験的に行っている。居間と庭が同面(どうづら)になっており、空間構成は異なりますが、清家先生の自邸「私の家」に通ずるところがあります。雅子さんも清家研の研究生であり、清家先生が追い求めいていたスピリットがこの家にも浸透していると思います」(安田さん)

ディテールやさりげない工夫に、雅子氏の設計の真骨頂が表れている。皮付き丸太の手すりは雅子氏が設計した住宅でよく採用していたもので、水がたまらず、耐水性が高く機能的。台所の床は食堂や居間の床から1.2尺下げ、台所に立つ人と食堂や食堂で腰掛ける人の目線の高さに近くなっているのは、夫妻の自邸「私たちの家」も同様だ。おそらく昌二氏は、雅子氏と相談しながら設計したのだろう。彼女のさりげない工夫について、誌面では昌二氏が淡々とした独特の語り口で、非常に細やかに解説している。

「雅子さんが表立って工夫をアピールするような方ではない分、雅子さんの代弁者であり、最大の理解者として昌二さんが懇切丁寧に語っている。また、ページのつくりや表現も非常に斬新ですね。赤い線を引き出し図面と本文をつなげたり、写真の上に手描きの断面図を重ねるといったコラージュ的な表現や工夫は、おそらく林さんのアイデアで、どうすれば雅子さんの設計の意図がよく伝わるかを考えたのではないでしょうか」(安田さん)

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「雅子は建築家です」。その言葉の真意とは——

昌二氏は常々「雅子は建築家です。私は違います」と言っていたという。「昌二さんは数多くの批評を寄稿し、自らを文筆家や批評家的な立場であると考えていたと思います」(安田さん)。

昌二氏は他者だけでなく、自らに対しても常に客観的で批評的な考えをもった人だった。日建設計での仕事も、常にチームの作品であると言っていたという。

「『私たちの家』の初期の図面を見ると、二人の製図板が並んで置かれていました。どんな設計をしているのか、どんなことを考えているのかをお互いによくわかっていたのだと思います。最も理解している人が解説してくれるのは雅子さんとしても嬉しいことだったと思いますし、昌二さんの方も雅子さんを自慢したいところもあったのではないでしょうか。2001年の雅子さんの告別式で昌二さんは、『自分は雅子の第一のファンであり、雅子さんは妻であり、同士であり、先生だった……』と語っていました。それほど大きな存在だったのだと思います」(安田さん)

写真:小川重雄

「私たちの家」を引き継ぎ、改修後は住宅の名称も「小石川の住宅」と改め、約10年以上が経つ。「今でも自分の家だと思ったことは一度もないんですよ(笑)。そもそも今の住まい手は「私たちの家」のコンセプトの想定外であるわけで、管理人である気持ちはいまでも変わりません」と安田さん。

今年に入って床をカーペットから白の大理石に張り替え、艶やかな大理石に庭の緑が映り込んで、ひと味違った雰囲気になった。

取材・文 植本絵美

林昌二
1928年東京・小石川生まれ。東京工業大学建築学科で清家清に学ぶ。1953年日建設計工務(現・日建設計)入社。1973年同社取締役就任後、副社長を歴任。2011年没。設計を手がけた作品は「三愛ドリームセンター」「パレスサイド・ビルディング」「ポーラ五反田ビル」など多数

林雅子
1928年北海道生まれ。日本女子大学家政学部生活芸術科住居専攻を卒業後、東京工業大学工学部建築学科の清家清研究室の研究生となる。1958年山田初江、中原暢子とともに林・山田・中原設計同人を設立する。2001年没。「ギャラリーをもつ家」などの住宅をはじめ「海のギャラリー」など多数の作品を残す

安田幸一
1958年神奈川県生まれ。1983年東京工業大学大学院修了。1983〜2002年日建設計勤務。1989年イエール大学大学院修了。1988〜1991年バーナード・チュミ・アーキテクツ・ニューヨーク事務所勤務。2002年東京工業大学准教授、安田アトリエ設立。2007年同教授、現在同名誉教授。設計を手がけた作品は「大分マリーンパレス水族館うみたまご」「ポーラ美術館」「福田美術館」「MUNI KYOTO」など多数

 

【復刻版】建築知識 創刊号(1959年1月号)

定価 2,000円+税
頁数 109
判型 B5判

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『建築知識』は2024年で創刊65年。1959創刊号が『【復刻版】建築知識 創刊号(19591月号)』としてエクスナレッジ・ストアにてPDFで限定発売中です。インタビューに登場する、雅子氏の設計した住まいを昌二氏が解説するという特集記事のほか、晴海高層アパートを前川國男事務所で設計を担当していた大高正人氏が解説する記事なども掲載。当時の広告もそのまま載っている大変貴重な資料です。