華北を支配していた周の弱体化がプロローグ
中国の春秋戦国期は、紀元前770年に周が鎬京(西安)から洛邑(洛陽)に遷した頃から始まります。周は、紀元前1024年頃から華北一帯を支配した勢力。大規模な木造宮殿の建造や、青銅器・玉器などを製造する技術を有していました。しかし、北方の遊牧民族の侵攻によって弱体化。それに伴い、中国全土の諸侯は各々王権を主張し、群雄割拠の春秋戦国期[※]が幕を開けることとなりました。※春秋期と戦国期の時代区分には諸説あるが、一般的には、周が王朝としての権威を保持していた時代(紀元前453年まで)を春秋期、そこから秦が中華統一を果たす(紀元前221 年)までを戦国期と呼ぶ
激化する勢力争い!防備に特化した城郭が発展
春秋期には晋・斉・楚・秦の四国が頭角を現し、他にも魯・宋・衛・陳・蔡・曹・鄭・燕などの国々が各地で台頭しました。各諸侯が領土拡大を目指したことで戦争技術が進化し、それに対抗すべく防備を固めた城郭が発展。城郭構造も変化していきました。
2重構造の城壁を備えた都市が誕生
春秋期の都市は外壁(郭)と内壁(城)の2重構造でした。支配者の宮殿は内壁の内側にあり、民居(民家)はそれよりも外の外壁内に配置。郭内住民のほとんどは農民で、朝になると外壁外の耕地へ出て農耕を行い、日暮れとともに内に戻るという生活をしていました。従来の国家は、邑と呼ばれる都市国家でしたが、春秋期になると大きな邑が中・小の邑を併合。やがて戦国期になると、領土の拡大を志向する領土国家が出現しました。国境を接して大領土国家が争うようになり、非常時の防御の拠り所だった内壁ではなく、外壁を強化することで敵の侵攻に対抗するようになっていきました。
遠隔地の戦闘における軍事拠点を設置
国が乱立したことに伴い、条約を結んだ複数の国が連合して戦う形態も生まれました。同盟国の戦いに参じる義務が生じ、長距離移動が戦に欠かせない要素に。遠隔地での軍事拠点である砦にも、さまざまな防御施設が設けられました。
初期の「長城」は国境沿いの戦闘に備えて
有名な万里の長城に代表される「長城」。北方異民族に対する防衛目的で築かれたイメージ(北辺長城)が先行しますが、戦国期に築かれた初期の長城は、騎馬戦を有利に展開する目的で列国との境に築かれたものでした(内地長城)。長城の大部分は地形をうまく利用し、石や土などの材料は現地で調達されました。
情報戦の要!「駅伝」システムの誕生
兵法書『孫子』は、合戦の勝敗の決め手は情報にこそあると説きます。間諜(スパイ)を駆使して収集した情報をもとに、専門家が戦略を分析。王の祖先を祀る廟堂で御前会議にかけられました。『孫子』はまた、戦場は未確定な要素に満ちている、とも警告。臨機応変な対応が合戦には不可欠であり、そのためには前線の情報をいかに迅速に司令部に伝えられるかが課題としています。街道と中継地・駅を整備し、伝馬を乗り継いで連絡する情報伝達のシステム(駅伝)は、こうした背景のもと戦国期に始まりました。
必勝マニュアルで攻城戦に備える
春秋戦国期、城の攻防は国の存亡に直結しました。その攻撃と防御の方法論は、戦国期に編纂されたという『墨子』に理論化されています。『墨子』では、城を攻める技術を12種類列挙。城を攻め落とすには、城壁を乗り越えるか、城門に孔を穿うがつか、地下道を掘り抜くかの3方法があり、12種の攻城法はそれらの応用となります。そのなかでも特に「臨」「穴」「蟻伝」の3つに対しては、徹底的な防衛が必要と説かれました。
ついに秦が中華を統一!そして…
「戦国の七雄」と呼ばれ覇権を争った、秦・斉・楚・燕・韓・魏・趙。紀元前221年に、秦が残りの六国を攻略し、ついに中華統一を成し遂げます。
「建築知識2024年7月号 中国の建物と街並み詳説絵巻」では、それから約1,900年後に建国された清までの建物と街並み、生活文化などを解説。その後の中華文明がどのように発展を遂げたのか。気になる方はぜひご覧になってください!
定価 1,800円+税
ページ数 142
判型 B5判
発行年月 2024/06
ISBN 4910034290741