日本名城怪談集
日本の城に残された怪談を集めてひもとくと、そこで生活した人々の暮らしや文化が見えてくる。
怪談はただ怖いだけではなく、その舞台にかつて命があったことを私たちに教えてくれる。
江戸時代の怪談は、参勤交代で江戸に来た武士達が江戸城内での長い待ち時間の間に「そういえばこういうおかしな話が、我が藩の城中でありまして……」「我が藩の城でも実は……」と、いうように語りあって広まったものが多いそうだ。だから、城に関する怪談が多く残っているのかも知れない。
大阪城の歴史
豊臣秀吉が天下統一の拠点として築いた大坂城の初代天守閣は、大坂夏の陣で燃えて失われてしまった。
その後、徳川幕府が再建した2代目の天守閣は落雷で炎上してしまい、長らく天守閣の無い城だったのだが、昭和3年に当時の大阪市長が天守閣の復興を提案し、市民の寄付で天守閣が再建されることになった。
寄付金は住友財閥の当主、住友吉左衛門の25万円を筆頭に150万円が集まり、これは現在の貨幣価値にすると600億〜700億円近くに相当するという。
その寄付金を使って天守閣の設計を行ったのは建築家・古川重春(ふるかわしげはる)だった。
古川重春は、当時は豊臣時代の大坂城の外観に関する唯一の資料であった元筑前・福岡藩主の黒田侯爵家に所蔵される「大坂夏の陣図屏風」(現在は大阪城天守閣蔵)を元に設計図を引き、外観は古い城だが、鉄骨鉄筋コンクリートを用い、中にはエレベーターも備え付けた。そして、内部は歴史資料を展示する博物館として活用されるようにした。この試みは当時としては大変画期的で、「大阪城方式」と呼ばれ、今もなお高い評価を受けている。太平洋戦争の戦火によって各地の城が焼失してしまったこと等もあり、戦後、全国で数多くの天守閣が再建されたが、その時に参考とされたのが、歴史博物館を兼ねた造りとなっている大阪城の天守閣だった。
大阪城の天守閣は近代になって再建されたものだが、今年で建築から93周年目を迎える。
そして、現在OBP(大阪ビジネスパークの略称。読売テレビ、住友生命、KDDI、東京海上日動火災、富士通、などの企業がオフィスを構える大阪の新都心)や森ノ宮等からも目にすることが出来る城の石垣は、徳川幕府の再築によるものだそうだ。と、いうのも徳川秀忠は大坂城再築の際、「石垣の高さは豊臣時代の2倍にせよ」と命じ、大幅な盛り土をして豊臣時代の石垣などを埋め殺してしまった為だ。徳川幕府による大坂城はその盛り土の上に築かれたのだ。
豊臣家よりもはるかに巨大な権力が誕生したことを誇示するためであったと考えられるが、一説には呪術的な意味合いがあったのではないかとさえ言う人もいる。
さて、そんな大阪城天守閣の学芸員を長年務めていた北川央(きたがわ ひろし)先生によると、大阪城は日本で一番怪談の多い城だという。
その理由はというと、他の城には無い、大坂城の特異な事情が関係しているそうだ。
大坂城は特定の藩の城ではなく、徳川幕府の城で、城主である徳川将軍はふだん江戸城にいて、3代将軍家光以降は、14代家茂まで、長らく大坂城に来ることさえなかった。
なので、大坂城の城代(じょうだい)や定番(じょうばん)、大番(おおばん)、加番(かばん)などの役職は、譜代大名や旗本たちが交代で務めていた。また、長い間将軍が来なかったので、将軍の為の建物である本丸御殿も使われることが無かった。
そのため、城内には誰も使っていない部屋がたくさんあり、自然と恐ろしい話が多く産まれたようだ。
大阪城に多く残る怪談の中からほんの一部を紹介したい。
大阪城の縄張り
縄張りは城の設計図・構造図として用いられた言葉。建造物の予定位置に実際に縄を張って示したことに由来する。
大阪城の怪談一・婆畳(ばばあたたみ)
泊所の「床の間」の左に、誰がそうしたのかは不明だが、屏風を左右の柱に釘で打ち付けて入り口を塞いだ一室があった。わずかな隙間から中を覗くと、真っ暗で何も見えなかったが、それでもなお目を凝らすと部屋の中央に10枚程の古畳が積み上げられているのが分かり、他には何も置かれていないようだった。
無理してこの部屋に入ると必ず災いが起こると言われていたので、長年誰も入る者がいなかったが、柔術の心得のある渋川伴五郎(しぶかわばんごろう)という侍が度胸試しに押し入り、畳みの上で横になって何かが起こるのかじっと待ってみた。ついうとうととしてしまった伴五郎であるが、突然胸が苦しくなり動けなくなってしまった。
ぎゅうぎゅうと全身を押さえつけられるような重圧に、何事ぞと思って目を開くと、銀髪を振り乱した老婆が両手で彼の胸を押さえつけていた。
渋川は柔術の技を用いて、老婆を跳ねのけようとしたが体はピクリとも動かすことができず、やがて畳の上から転がり落ちてしまった。床に転がった渋川は畳の上や辺りを見回したが、暗がりの中には自分以外誰もおらず、以来その古畳を婆畳と呼ぶようになったという。
『金城聞見録』に載っていたという、この話を聞いたのも、北川先生からだった。
大阪の市立中央図書館にあると知り、申請書を書いて閲覧した『金城聞見録』には「婆あ畳」の文字がしっかりと確認できた。現在の大阪城だとどのあたりかを絵から判じることはできなかったけれど、当時からしっかり記録として伝わって来た話だということが分かり、思わずおおっと声が口から漏れてしまった。それにしてもその場に居合わせたのが侍だったからなのか、大阪城に伝わる怪談はただ一方的に怖がるというものだけでなく、退治しようと挑みかかったり、正体を見極めてやろうとしたりする者のエピソードが幾つも残っている。
大阪城の怪談二・明半(あけかけ)の間(ま)
城内には「明半の間」と呼ばれる一室があり、襖から少しでも目を離すと閉まっていた筈の襖が必ず開いた状態になっていたという。
そして、本丸には中に入ると乱心するという噂の一室もあり、大変恐れられていたという。
大阪城の怪談三・ジジイ雪隠(せっちん)
口大番所(くちおおばんしょ)にある便所は「ジジイ雪隠」と呼ばれていた。
いつ頃から、どういった事情でそう呼ばれているかは不明だったが、ある年のこと、この便所を壊し、肥壺(こえつぼ)を埋める工事をした。
だが、翌朝になると、便所が昨日と全く同じ状態に戻っていた。
皆が昨日確かに工事をした筈なのにと、大変不思議がったそうだ。
大阪城の怪談四・禿雪隠(かむろせっちん)
元禄年間(1688〜1704)に大坂城に勤めていた水野十郎兵衛(みずのじゅうろべえ)という旗本は、城内に物の怪の出ると噂される便所があることを知り、正体を見極めて捕らえてやると意気込んだ。
水野は夜中に1人で、手燭(てしょく)を持ち件(くだん)の便所に向かい物の怪が出るという噂の時間まで闇の中で1人じっと待つことにした。
すると、すうっとどこからともなく禿姿の女の子が現れ、ニッと笑ったので、流石の水野も狼狽(うろた)えたが、表情には出さず、ただじっと座していた。そして、小用に立とうとすると、その禿が先を歩き手燭で足元を照らし、手洗い場では子(しゃくし)で手に水をかけてくれたという。だが、急に禿の顔が変じて牙が伸び、角が生え鬼のような姿になり、白く濁った眼を剥いて裂けた口を大きく開けて襲い掛かって来た。
だが、水野が刀に手をかけたまま、禿をギロっとにらみ返すと、禿の姿は掻き消え、以来二度と便所に姿を現すことは無かったそうだ。
大阪城の怪談五・陰火(いんか)
本丸から桜門を出て二の丸に向かう土橋の両側は水の入らぬ空堀になっていて、その空堀に、触れても熱さを感じない陰火が浮かんでいることがあった。陰火は夏の雨の後に現れることが多く、この世に未練のある者の魂がそのような姿になったと言われており、大坂城で討ち死にした多くの人の怨念によるものだろうと噂された。
大阪城の怪談六・蛙石(かえるいし)
大坂城外堀の北西の角、ちょうど乾櫓(いぬいやぐら)に向き合う場所に蛙の形をした石があった。「蛙石」と呼ばれ、これに腰掛けると誰でも自殺したくてたまらなくなり、石の脇にはよく、自殺者の下駄が揃えられていたそうだ。
元々この石は、河内の川べりにあった殺生石(せっしょうせき)だったのだが、豊臣秀吉が一目で気に入り、大坂城に運び込んだところから妙なことが次々と起こるようになってしまった。
大坂城の堀に身を投げて死んだ者は必ずこの石のそばに流れ着くという噂もあり、大坂夏の陣の大坂城落城時には、淀殿の遺体も蛙石の側に横たわっていたといわれる。
そんな蛙石は、戦後、進駐軍から庭石としてもらい受けた人物によって、旧三十七聯隊跡地(現在の難波宮跡公園)近くの警察クラブ横に移されていたのだが、これに気づいた天羽(あもう)嶈【山冠に将です】次さんがこの人物から譲り受け、天羽さんによって、昭和31年(1956年)に奈良の元興寺に施入された。
現在でも毎年7月7日に蛙石に纏(まつ)わる因縁の供養が執り行われているのだが、知る人はさほど多くないようだ。
大阪城の怪談七・叫び声
黄昏(たそがれ)時になると、天守閣近くの地中から叫び声が聞こえることがあった。
大坂夏の陣にて非業の死を遂げた大坂方の人々の声ではないかと昔から言われていたそうだ。
大阪城の怪談八・淀君の霊
時折大阪城の砲兵工廠跡で手を振る着物姿の女性が現れた。淀君(淀殿)の霊なのではないかと噂されている。
大阪城の怪談九・呪いの残念石
大坂城築城に使う石の切り出しの時に、三四郎という男が押しつぶされて死んでしまった。
不吉な石だったが、大きくて、硬さや見た目も良かったので結局大坂城まで運ばれることとなった。
しかし、運搬途中、城下でこの石に触れたため、病気になったり、怪我を負ったりする者が次々と現れる事態となった。
石は城内のどこかにあるはず…。残念石(運んだが石垣には使われなかった石のこと)の一つだという噂もある。
大阪城の怪談十・豊年魚(ほうねんぎょ)
最後は不思議な生き物の話を、幕末の瓦版(かわらばん)から紹介しようと思う。
瓦版は、災害や事件、奇妙な噂となる出来事などの情報を市民に伝えた木版の印刷物で、今でいう新聞のようなものだ。この瓦版に、「淀川に現れた豊年魚」(大阪城天守閣蔵)という記録があり、姿はイタチのようで、足は亀に似ているとされた。豊年魚が現れた年は、豊作になることから、豊年になる魚ということで名付けられたらしい。しかし瓦版や錦絵に残るその姿はあまり魚に似ていない。
豊年魚は、淀川だけでなく大阪城の堀にも現れ、その姿からゴジラのモデルになったのではないかとも言われている。
『日本名城怪談集』は建築知識2024年9月号から連載開始!
名城に伝わる怪談を蒐集する当連載。次号のテーマは「白鷺城」と呼ばれた麗しい姫路城です。
十二単を纏った美しい魔性・刑部姫(おさかべひめ)。家宝である皿の紛失の罪を着せられ 井戸に投げ込まれたお菊さんなど、恐ろしくも美しい怪談をお楽しみに!
建築知識2024年9月号 部位ごとに押さえる 建物を描くための建材・設備図鑑
定価 1,800円+税
著者名
ページ数 142
判型 B5判
発行年月日 2024/08/20
ISBN 4910034290949
著者プロフィール
文・田辺青蛙[たなべ・せいあ]
『生き屏風』で日本ホラー小説大賞短編賞を受賞。著書に「大阪怪談」シリーズ、『関西怪談』『北海道怪談』『紀州怪談』『魂追い』『皐月鬼』『あめだま 青蛙モノノケ語り』『モルテンおいしいです^q^』『人魚の石』など。共著に「京都怪談」「てのひら怪談」「恐怖通信 鳥肌ゾーン」各シリーズ、『怪しき我が家』『読書で離婚を考えた』など。主宰イベント「蛙・怪談ガタリ」はじめ、怪談イベントにも出演多数。
絵・うめだまりこ
東京生まれ。英国・米国・日本でイラストレーター・絵本挿画家・漫画家として活動。ゲーム、絵本、映像作品など多岐にわたりアートを提供。著作に『渡英2年うめだまのイギリス自由帳』『流転7年うめだまのイギリス・アメリカ自由帳』(ともにKADOKAWA)『Moon and Me :The Little Seed』(挿絵/Scholastic)
監修・北川央[きたがわ・ひろし]
1961年大阪府生まれ。神戸大学大学院文学研究科修了。専門は織豊期政治史、近世庶民信仰史、大阪地域史。1987年に大阪城天守閣学芸員となり、主任学芸員、研究主幹などを経て、2014年に大阪城天守閣館長。2022年に定年退職し、現在は九度山・真田ミュージアム名誉館長。全国城郭管理者協議会元会長。
著書『大坂城』(新潮新書)、『大坂城をめぐる人々』(創元社)、『豊臣家の人びと』(三弥井書店)、『なにわの事もゆめの又ゆめ』(関西大学出版部)、『大坂城と大坂の陣』(新風書房)など。